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2010年2月25日

宴のあと


このところ宴会が続いている。

夜遅く帰宅すると音楽を聴いたり、本を読む時間も無く、怠惰な時間を過ごしてしまっているなと暗い気持ちになる。単身赴任一人住まいの孤独さも手伝い、侘しい。


それにしても音楽を聴くということは私にとってどのようなことなのだろうか。音楽とは時間そのものでもあるわけであるし、たとえば今手元にあるマーラーの交響曲を仮に全曲を聴くとしたら、それだけで12時間近く、約半日も費やすことになる。でも考えると私は今日までにこれらの曲を別の演奏も含め何度も何度も聴いてきたわけである。たった一人の作曲家の一つのジャンルにしてこうなのだ。もっとも演奏する側は更に時間をかけているのも事実である。正しいと思う解釈を創り上げ、ミスを起こらないように努力し・・。まあそれは演奏者にとっては理想の達成あるいは生活の糧なので止むを得ないこととしていただき、私は時間のある時に気分の赴くままに好きなCDを取り出して聴き、またたまに会場に足を運んだりして聴き、そして結果の良し悪しを言っているのに過ぎない。勝手なものだ。それでいいのだろうか。時間の浪費。

否、数こそ少ないが感動との出会いがあるからこそ莫大な時間をかけているのである。今月初めに記したような傍から見れば滑稽なまでのライブでの感動もある。時間と金を浪費した結果の超名演奏との出会いがあるから止められないのである。(懲りないやつ。)

宴席や酒が止められないのとは理由がまったく違うのである。(ホントかいな。どちらも惰性だろ。)

しかし酒は飲みすぎるといけない。音楽を聴く時間が少なくなってしまうからである。
ところが、である。金沢にいると宴席の中でも古典音楽に出会うこともある、しかし西洋音楽とはまったく別の音。感動は残念ながら得ることは出来ないがその独特の雰囲気は味わうことが出来る。笛、三味線、太鼓そして舞踊や唄。時にその気になれば楽器の練習などもさせてもらえる。

でも私の趣味ではない。「金沢だから体験できるのです。」などととは言ってはみるが、虚しい。文化であることは確かである。また享楽と言って良いかもしれない。












先日ある人が会合で金沢ほど素晴らしい「城下町」は他に無いという趣旨の発言をしていたが、まったくそのとおりであって、江戸時代からのものが作り物や復元されたものとしてではなく過去から生活に溶け込んだままで残っていて、まったく稀有なことである。当地を指して小京都という言い方もあるが京都それ自体は城下町ではないから別のものである。

たとえば大友楼などの古くからの料亭でランチする。相当古い器に盛られた食事が供されることとなる。盃も食器も古い九谷焼である。古い漆器も一部剥げていたり、傷があったりする。調度の掛け軸や画などもかなりの年代もの。
食事にもいちいち薀蓄があるし、食事に全く相応しい美味い地元の酒がある。お庭も素晴らしい。全部がハモっている。これも音楽。


今日のとあるホテルでの宴席の題名は、「美酒(うまざけ)の宴」であった。がこのところの不摂生の挙句のヒドイ風邪が完治しておらず題名どおりの宴とはならなかった。

病み上がりのブログでした。さて寝るか。


4 件のコメント:

  1. まだ風邪のほう完治してないのですね。
    連日の宴会(これもお仕事?ですもんね)ごくろうさまです。
    いい音楽を聴いて風邪が癒されるといいですね(^ー^)/

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  2. あ~ビックリした。「体験できる・・」って今度は女装したのかと思いました(^^;
    風邪お大事になさってください!

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  3. keiさん
    ありがとうございます。
    お言葉だけで癒されます。

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  4. kinakoさん
    ありがとうございます。思ってもみませんでした。
    でもドキリとしました。

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