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2011年11月26日

二期会・ドン・ジョヴァンニ





キルケゴールの「あれか、これか」の中にある「音楽のエロス」というものを、少なくとも私にとっては初めて実感させられた。今となっては、モーツァルトの時代の「ドン・ジョヴァン二」もキルケゴールが見た舞台も私たちは誰も知らない。もしかしたら今の時代の、過激とか過剰だとか評される演出はほとんど先鋭的でも革新的でもなく、モーツァルトの時代、キルケゴールの時代の上演のほうがもっと人間の根源的な部分をあからさまに表現していたかもしれないということも思った。さもなければ当時キルケゴールが、モーツァルトの「ドン・ジョヴァン二」のなかに、どうしてエロスに肯定的な価値を見出したのだろうか。

従来、一般的なジョヴァンニ自身の持つ滑稽さや非倫理性を希釈したり強調したりすることで演出が組み立てられてきたが、全体を人間の持つ普遍的な性愛への欲望という本質を登場人物全員を持って表現したのが今回の演出ではなかったのか。

しかし考えてみれば、鳴り響く音楽は歌唱も管弦楽も、いつもモーツァルト以上でも以下でもないということである。衣服をすぐ脱ごうが、下着姿になろうが、ジョヴァンニが死のうが生きようが、すなわち演出が以前とは変わったとしてもモーツァルトはモーツァルトでしかありえない。むしろモーツァルトの音楽の持つ感情の多様性がどのような視覚効果にも対応できるということであり真に強い音楽であるということだ。

さらに言えば、というより先に言うべきできであったのだが、今回の歌手の人たちはこの一見単純だが非常に難しい音楽を、また難しい演出のなかで、全く見事に歌いきったということ。管弦楽にとっては不幸な、響かないホールの中で絶妙のニュアンスのある演奏を成し遂げていたこと。歌手・指揮者・オーケストラによって、モーツァルトの音楽が素晴らしく完成されていたことを強調したい。

歌手は前述のとおり誰一人文句の付けようの無い歌唱。特に触れるとするならば、グルーバーの演出の中で従来以上に重要度を高めていたツェルリーナ。嘉目真木子の歌唱と演技はオペラ全体のなかで光っていた。

(11月26日、日生劇場)


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