Translate

2010年10月14日

指揮者とティンパニスト。あれかこれか。否、あれもこれも。

ある本を読んでいてあのヘルベルト・フォン・カラヤンがティンパニを勉強したことがあって、オケのなかで、ティンパニに対してのこだわりが大きかったというようなくだりがあった。


そういえば、カラヤンがベルリンフィルの常任になってからしばらくして、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー時代に活躍していた首席のティンパニストのヴェルナー・テーリヒェンを干して、オズヴァルト・フォグーラーをもっぱら起用した。そして後年テーリヒェンは「フルトヴェングラーかカラヤンか」という本まで著し、カラヤンを非難した。

フルトヴェングラーはカラヤンを毛嫌いした。カラヤンはフルトヴェングラーが重用したテーリヒェンを嫌い、カラヤンが重用したフォーグラーはテーリヒェンを技術的にはまったく認めていなかった。音楽の良し悪しというのは、好き嫌いの問題でもあるし、言い換えれば技術的なものを優先するのか感情的なものすなわち人間的な部分、つまり曖昧な部分を重んじるのかどうかである。またあるいはそれらのバランスか。音楽演奏においては技術的にある程度のレヴェルに達すると、その先の良し悪しはまったくもって演奏家や聴衆の趣味性の問題ということができる。

カラヤンはあれだけの録音、映像を残し、世界最高峰のベルリンフィルに長きにわたり君臨した人気指揮者であったが、私として心に残る、座右におくべき録音にはまだにめぐり合う事が無い。多くのオペラやオペラの序曲、間奏曲やチャイコフスキーなどで良いものはあるが。

フルトヴェングラーの音楽はカラヤンのそれを批判する人が多いということに反して、悪く言う人はほとんどいないようである。丸山眞男のような高名な学者が礼賛し、こぞって日本の文化人やスノッブが賞賛をしてきた結果だからというわけではなく、日本人が好む精神性とかドイツ的(実はどちらも?もの)な感覚が強いからなのであろうか。しかし私は、「そんなに良いのか?」という気持ちになる。確かにベートーヴェンのいくつかとウェーバーなどドイツロマン派の管弦楽曲に良い物はあることは認めるが。

私も感覚的な好き嫌いで単に良し悪しを言っているわけであるのだが、クラシック音楽の特徴はその名の通り歴史が長いということで数多くの楽曲と非常に多くの演奏が存在するのであり、瞬間に消えゆく音楽を同じ条件で複数比較することは出来ないことからして相対評価は難しい。指揮者・オケ・ソリスト・演奏会場・お客の質、量、湿度、温度、聴き手の状態で変化する。比較的CDなどの録音されたものについては再生装置が一定ならば比較はし易いのだが、しかしやはりその録音現場で作られる瞬間はまったく違うし、年代による録音技術、エンジニア、プロデューサーの考え方や嗜好によっても大きな違いがでてくる。

ということであんまり、あれは良い、これは悪いと決めつけないで、色々な音楽を聴いてその中で少しでも感動したり、良い気持ちになることができるのであればいい。コンサートホールで、あるいはスピーカーの前で一人悦に入り、さまざまなことを考えるのである。それが一番と思いますね。

0 件のコメント:

コメントを投稿